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しかし、もともと看護婦である彼女たちは、病院勤務のルールと同じだったから、気にはならなかったという。
 「空からきた天使さん」 最初の頃は”客”のほとんどが郵便物を納めた郵袋だったが、スチュワーデス人気で次第に乗客も増えてきた。
予約の際、特定のスチュワーデスが搭乗する便を指定する顧客も多かったという。
 満席の場合、彼女たちは郵袋やスーツケースに腰を下ろした。
はじめてキャビンークルー用の座席、ジャンプシートが装備されるのは、改良型のボーイング80A型になってからだ。
 当時はまだシートの背後に、折りたたみ式のテーブルが装備されていなかったから、乗客が食事をする際には別に小さなテーブルを用意した。
これは一本脚のテーブルで、床の穴に脚を差し込み、キャビン横の壁にふたつのクリップで留めるというものだった。
しかし、機体の振動や揺れがひどく、特に悪天候のとスチュワーデスが初めて乗務したボーイング80の改良A型きなどテーブルのセットには苦労した。
そこで彼女たちが考えたのが、乗客の膝の上に枕を置き、その上にプレートを乗せてテーブルにする方法だった。
これは病院のベッドで、患者に食事をサービスするときのやり方を応用したもので、ハリエットーフライによれば、この方法は数年続いたとい 当時は禁酒法の時代、よってアルコール飲料のサービスはなかった。
しかし隠れて飲んでいた人も多い時代だったから、機内での飲酒を監視するのもスチュワーデスの役目だった。
フラスコや咳止めシロップの瓶に、密かにアルコールを入れて機内に持ち込む乗客を見張ったのだった。
 「オリジナルーエイト」がはじめて乗務したボーイング80は、ラバトリー(化粧室)を装備していた。
手洗いからは温水が出、個室にはライトも付いていたが、トイレットの便器はまだ原始的なものだった。
簡単にいえば、床に開けた穴に金属製の缶をはめ込み、上に便座と蓋を取り付けただけの代物。
蓋を上げれば、オープンエアートイレットだ。
悪天候や乱気流で揺れが激しいときには、トイレの内容物がドアの隙間からキャビンに流れ込むこともあったという。
その処理のモップ掛けが一番嫌いだったと、「オリジナルーエイト」の一人、ハ看護婦資格を持つ初期のスチュワーデスは、こんな服装でサービスしたリエットーフライは回想している。
 また騒音がひどかったので、耳栓用の綿は必需品だったが、乱気流などによる急激な高度変化も多く、その繰り返しで耳を傷めるスチュワーデスも多かった。
同じく「オリジナルーエイト」の一人、ジェジー・カーターは、フライトのたびに耳を傷め、三か月で看護婦に戻った。
イーネズーケラーは、一挙に一五〇メートル以上高度が落ちる乱気流を体験、四か月の乗務で31左の耳が聞こえなくなり、スチュワーデスを辞めて看護婦に戻った。
 そのケラーの回想によると、故障のためや、悪天候時には燃料不足(向かい風などのせいか)のために不時着することも少なくなかったという。
その燃料不足でワイオミング州チェロキーの麦畑に不時着したときのこと。
近隣の人々が、馬に乗って、あるいは馬車で、飛行機を一目見ようとやって来た。
彼らは飛行機を見たことがなかったのだ。
 彼らははじめて見る飛行機と、それに乗ってきた人間、とりわけスチュワーデスに触れたがった。
彼らの一人は、イーネズにこう呼びかけたという。
 「空からきた天使さん」 オリジナルーエイトの栄誉 その後、Eは自動車事故に遭い、二年間でフライトをあきらめ看護婦に戻った。
しかし後に第二次世界大戦で、ふたたび彼女は飛んだ。
今度は負傷兵を戦地から空輸するフライトの看護婦として。
アフリカ戦線で、英国、イタリア、フランス、ドイツのヨーロッパ戦線で、彼女は空飛ぶ看護婦として働き、航空メダルを受けた数少ない女性のひとりとなった。
しかし一九六五年、落馬で負った怪我が原因で死去する。
一九七五年、Eの故郷アイオワ州クレスコの空港が、「Eフィールド」と命名された。
彼女の業績を称えるプラークも掲示された。
『彼女の名は、世界の看護婦たちとスチュワーデスたちの心に、無私の奉仕と献身の象徴として永遠に留まることだろう』と記されている。
 スチュワーデス誕生四五周年の一九七五年、翌年にアメリカ民間航空五〇周年(それはY航空の五〇周年でもある)を控えて、Y航空は所有のボーイング747の一機を、「オリジナルーエイト」号と命名し、彼女たちの栄誉を称えた。
登録記号N4712Uのジャンボの機首部には、「HOZ9 nal EightJの文字とともに、彼女たち八人全員の名前が書き込まれている。
命名式には存命の五人が出席、機首にシャンパンをかけて祝った。
筆者はホノルル空港でこの機体に出会ったことがある。
 ところで、「オリジナルーエイト」の陰に隠れてあまり目立たないが、同じ一九三〇年の五月に、はじめて黒人(政治的に正しくはアフリカ系アメリカ人)男性のキャビンークルーが採用されている。
ニューイングランドーアンドーウェスタンーエアウェイズという小さな会社が、鉄道のプルマンカーのポーターを引き抜いたものだった。
これも重要な歴史的事実に違いない。
33 日本のスチュワーデス第一号 話をスチュワーデスのサービスに戻そう。
 スチュワーデスのパイオニアたちの乗務は、かなりハードなものだったが、この新しいキヤビンーサービスは人気を呼び、間もなくトレントになった。
一九三〇年代、BATに続いて他のエアラインも、続々と女性のキャビンークルーを採用しはじめる。
 一九三一年はアメリカの民間航空再編の年となった。
七月一日には、BATとNAT(ナショナルーエアートランスポート)、パシフイックーエアートランスポート、ヴァーニー・エアラインズの四社が合併してY航空となる。
これで全米約三〇社が、後にビッグーフォーを形成する四社の前身、アメリカンーエアートランスポート、イースタンーエアートランスポート、TWA(トランスコンチネンタルーアンドーウェスタンーエア)、Y航空に再編された。
 そしてスチュワチュワーデスの搭乗が、一九三一年イースタン、三三年アメリカン、三五年TWAと続き、三九年にはNエアラインズにも誕生した。
いずれも看護婦の資格が必要条件だった。
ヨーロッパにおける最初はスイス航空で、その後ルフトハンザがこれに続いた。
国際線にはじめてスチュワーデスを搭乗させたのは、エールーフランスという。
 日本でも一九三一年三月五日に、東京航空輸送社がエアーガールの名で、はじめてのスチュワーデス三人を採用している。
世界的に見てもその登場は早かった。
 彼女たちがどのような女性たちだったのだろうと長い間思っていたのだが、航空史家で航空ライターの先輩、横森周信氏の調査によりやっと判明した。
横森先生によれば、彼女たちは、一九歳、F女学校卒業見込みのFさん、同じく一九歳、T高等女学校卒業見込みのWさん、一八歳でK女学校卒業見込みのKさんの三人がNのスチュワーデスのネイビースーツ・ファッション(1958年)だった。
彼女たちの仕事は、機上からの風景の説明や茶菓のサービス。
ユニフォームはなく、私服(和服ではなく洋服)で乗務した。
給料はI往復約三円だったという。
看護婦資格は必要なかった。



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